東京エスメラルダ

オトナによるオトナだましぃな日記 @田舎

ひとかど(一人前)の人間になろうとしていた。

私が生まれてから大人になるまでのひとかどの人間(女性)のイメージとは、

・いい学校を出て

・そこそこの就職先で5年ほど勤めて結婚資金を貯め

・そこそこの年収のサラリーマンと寿退社をして2人ほど子供を産み

・ローンで家を買い夫と子供の世話とパートに全力投球し

・年老いた親の面倒を看る

そんな人生をおくるとことだった。私はこの価値観を疑うことなく、自然とそこへたどり着くものだと思っていた。

 

しかし現実は、

・良い成績だったのにレベルの高い学校にはついていけず大学受験も失敗した

・大手企業には就職できず親の知り合いの中小企業に頼んで雇ってもらった

・サ残の長時間労働と低所得がつらくて正社員での仕事が長続きしなかった

・長く付き合っていた人と30代で別れた

・結婚もせず子供も産まず後戻りできない年齢の非正規の貧困独身女になった

・今の夫と出会ったが籍は入れず事実婚で仕事もやめて専業主婦になった

後期高齢者になりかけてる親とも同居せず自活させている

 

いつでも、自分の底には漠然とした不安や焦燥感のようなものがあった。コップの水によく例えられる、ここまであるから充分なのかこれしかないから不足なのかということについて私はいつだって不足だと感じていて、自分はまだ足りない人間だ未熟だ未熟だと考えていた。どのタームにおいてもひとかどの人間には未達成だと思い、学歴・仕事・結婚などどの項目においても中途半端で一般レベルには至っていないと考えていた。

 

根底には「親の期待に沿えていない」という後ろめたさがあるのかもしれない。勉強のできる女の子だった私には特別な愛情や期待、親が見られなかった景色を私に見てほしいという親の強い思いがかけられていた。幼少期に素直でいい子だった私は親が思い描く幸せの形や理想といった価値観を水の如く素直に吸収していた。そうしてできあがったのは、つねに現状の自分に満足できない人間だった。

 

30代半ばで恋人と別れ、人生で最大の喪失感を感じた。私ってこれからどう生きたいのかわからないと。悶々と悩んで行き着いたのは、エリート街道にも乗り損ね三十路で独身の今の私ってそもそもかわいそうなの?本当に終わりなの?という疑問だった。

良い会社で仕事して結婚して育児して、他の人と同様のそういうひとかどの人生をそもそも私は目指していたのだろうか?そうなりたかったのだろうか?それに向かって努力をしてきた人生だったのだろうか?

いいえ、そうではない。自然とそうなるんだろうなと茫漠としていただけ、それが普通だから目指さなきゃいけないんだろうなと思ってただけだ。だからそうなれなかったことで自分を憐れむのはなんか違うなと思った。

 

悲観する時期が過ぎて冷静になったとき、コップの水にこれしか入ってない論が正しいのか、これだけ入ってる論が正しいのかと考えた。そして私は、これだけ入ってると考えた方が「幸せ」だということに気がついた。私はひとかどの人間になることを目標にしてきたのではなく、幸せに向かって生きることが目的だと思うようになった。

私はついに自分の物差しを見つけた。自分の物差しで測ればひとかどの人間の尺度が変わってくる。なにかになろうとしなくていいということを受け入れられるようになった。

とりあえず現在生きていられるだけの教養と一般常識と社会性は身についており、軽微な仕事ならまだできる程度には健康で、子供を持てなかったのは残念だけれどもそのかわりに莫大な出費もないので万が一には備えられる程度の貯金があり、入籍はしていないが事実婚で何年もパートナーとして共に生きてくれる夫がいて、高齢の親もまだ元気でたまにご機嫌伺いに行く。

充分幸せだと言える。コップの中身が聖水で満タンじゃなくても私は満たされているし生きていけることを今は知っている。どうしたいかをわかっていて、なにが幸せかを知っていて、そしてほどほどに幸せを創っていけることを今は知っている。

こういうことが一人前になるってことじゃないかな。